「自分事」で書くと血肉となる


【「他人事」か、「自分事」か】

そこが問題だと思うのです。

ノートをたくさん書いても、身につかない・・・人。

ノートを書くほどに、必要な知識をどんどん身につける人。

その差は何か?

キーワードは「自分事」。

情報や知識が「血肉にならない人」と、情報や知識を「体験・体感」を通して「血肉とし、生きた智恵」にできる人の違い・・・。それは、いわゆる評論家のように「他人事」で物事に接するか、「自分事」として心から物事に接するかで分かれる。ような気がしています。

自戒の念を込めて。

「自分」という肉体と精神のフィルター、そして時間という砥石で磨くことなくして、生きた智恵というのは生まれてこないわけで、いくらたくさん本を読んでも、いくらたくさんの「すごい人(ほんとは、そんな人はどこにもいなくて、ただ熱くまっすぐ生きている人とそうでない人がいるだけですが)」に会っても、その体感・体験を、未来の豊かさにつながる智恵にすることができない限り、虚しい・・・。

と思うわけです。なぜこのようことを思うのかといえば、、、

それは、ネットという不思議なチカラで、「自分という存在(肉体や精神が宿っているところ)」から離れて、仕入れた情報を、コピペにちかい状態で世の中に出せてしまうわけで、すると、「それは、自分の智恵なのか、あるいは見聞きした情報や記号(言葉)を並べ替えているだけなのか」、真剣に向き合わなくてもいい状況がそこにあるからです。

「自分という存在」を通過しない「言葉」は無力です。なぜなら、そこに「自分」でしか描けない世界がスッポリ抜け落ちているから。世界観といえばいいのでしょうか、「自分が生きてきたすべて=世界観」を通して、世の中と溶け合っていくことで、得られる「かけがえのない豊かさ」を手放すことになるから。

今日も一日、お互い、「言葉」をグッと自分の肉体と精神に引き寄せて、生きた智恵をつむぐ24時間にしていきましょう。

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