授業ノートのコンビニ化


【「授業ノートのコンビニ化」と教育者の役割】

をつくづく考えさせられるシーンに昨日遭遇しました。13歳前後の子どもたちに「方眼ノート」を教えていてのこと。学校の授業ノートを見て少しショックを受けました。先生が配ったプリントばかりが貼られたノート。「あっ、コピペノートだ・・・」と思わず思ってしまったわけです。

いつの間にか、コンビニ化する学校。便利で効率がいいやり方が推奨されていく。でも、便利さや、効率の追求は、ときに諸刃の剣として、未来を削り取っていくような気がしています。結局、そこでのつけは子どもたちが、未来のどこかで払わされることに。

例えば、英語教育。あれほど時間と努力を費やしても、大人になってなぜか使えない英語教育。その現実がなぜか解決されない・・・(これは、便利さや効率化以外のより根の深い問題があるのですが)。

ノートは子供の未来を育む場所。
そこには、ひとり一人の子供の創造性や論理性を含めたその子の大切な個性的な能力が培われていく土壌があるわけです。でも、その豊かなるはずの土壌が、先生から配られた「プリント=考える余白を奪うもの」でところ狭しと埋め尽くされているわけです。

きっと、教育の現場の効率化のもと、「プリントを配って、それだけ覚えさせればいい」という流れになったのだと思います。でも、教育と家庭という場所は、効率を追求してはいけないところがたくさんあって、そこで効率を追求すると、大切な未来を培う「人の成長」が欠落してしまうことも。

以上のようなことを考えると、ますます、13歳前後の子どもたちに、自らの力で未来を創造できるノートを手渡したい!と強く思うわけです。

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